your name




僕にとって、その人の名前を呼ぶってことは、何だかとても恐れ多いことで。
その上ものすごく恥ずかしかったりするものだから、できればこのままずっと苗字で呼ばせてもらおう、とこっそり思っていた。
名前で呼びたい気持ちも確かにあったけど、どうしても恥ずかしさの方が勝ってしまうから、多分一生呼べないんだろうなぁと何となく諦めてたんだ。
それに今までそれを咎められたことはなかったし、だからきっと向こうにとってはどうでもいいことなんだろう、と高を括っていたから気付かなかった。
――実はその人が結構しっかりと、知らない間に怒りを蓄積させていたことに。



「い、磯前さん、何ですか急に!?」

壁際に追い詰められ、体の両側に手をつかれて逃げ出せない体勢に追い込まれた僕は、慌てて磯前さんの名前を呼んだ。
どうしていきなりこんなことになっているのかが分からない。
ただ昨日、日織とあやめちゃんの舞台を見に行ったんですよ、と話した途端、急に磯前さんが近づいて来て――気が付いたら、壁際に追い詰められていた。

「………………」

沈黙を保ったまま、僕を見下ろす磯前さんが少し怖い。何だかとても怒っているような気がする。

「い、磯前さん?」
「あ?」
「何か怒ってます……?」
「ああ」

あっさりと肯定されて、僕は思わず身を引いた。しかし壁際に追い詰められているせいで、気持ちはともかく、体は少しも後ろには下がれていない。
磯前さんはただ僕のことをじっと見下ろしている。

「ご、ごめんなさい〜!」

思わず謝ると、磯前さんはますます不機嫌そうに眉をしかめた。

「お前、何で謝ってんだよ」
「だ、だって磯前さん怒ってるって言ったじゃないですか!」
「意味も分からずに謝ったって意味ねえだろうが。大体、俺はお前に謝って欲しいわけじゃねえよ」
「え?」

恐る恐る見上げると、磯前さんはじっと僕を見つめたままで、まるでため息をつくように、言った。

「……名前」
「はい?」
「名前呼んでみろ。俺の」
「え、ええ!?」

き、急にそんなこと言われても!

「着流しや双子の嬢ちゃんのことは名前で呼んでんだろうが。いいからさっさと呼んでみろ」
「だ、だって……」

日織やあやめちゃんと、磯前さんは違う。
僕にとって磯前さんはいちばん大切で大好きな人で。……だからこそ、恥ずかしすぎて名前が呼べないのだ。

「何だ、お前もしかして俺の名前知らねえのか?」
「そ、そんなわけないですよ!」

胸の内で何度繰り返したか分からないその名前。口に出すことはなくても、しっかりと脳にも心にも刻み込まれている。
ただ音としてこぼれないだけで。
磯前さんは、ならさっさと呼んでみろ、と言っているのが分かる表情で僕を見下ろしている。うう……どうしよう……! 呼べるものならとっくに呼んでるんですよー!
でも呼ばないと、磯前さんが怒ったままだし……!


意を決して、僕は磯前さんを見すえた。そして心を落ち着けて――


「た、……た、」
「………………」
「た、……あーーだめです! やっぱり呼べないーー!!」

思わず顔を手で覆う。な、何かダメだ! やっぱり恥ずかしい!

「お前な……」

磯前さんの呆れたような声が降って来る。そんなたいしたことじゃねえだろうが、という言葉に僕は顔を上げた。
たいしたことじゃないって……!

「じ、じゃあ磯前さんこそ僕のこと名前で呼んでくださいよ!」
「ああ?」
「磯前さんだって、僕のことずっと坊主って呼んでるじゃないですか」
そうだ。出会ってからずっと磯前さんは僕のことを「坊主」と呼んでいる。
それが嫌なわけじゃないけど、たいしたことじゃないって言うなら僕だって名前で呼んで欲しいと思った。
それに、磯前さんが名前で呼んでくれるなら、僕だって磯前さんを名前で呼ぶ勇気が出るかもしれない。

「なるほど。交換条件ってことか?」
「そ、そんなおおげさなものじゃないですけど」

しばらく考えるようなそぶりを見せていた磯前さんは、やがてにやり、と笑うと、僕の耳元に口を寄せた。
そして、囁くように低音で――

「――――和」
「!」



名前を、呼ばれた。



「な、な……」

息が詰まって言葉が出て来ない。こ、腰が砕けた……!

「ず、ずるいですよ磯前さん!」
「何がだ? ちゃんと名前呼んでやっただろうが」
「声がずるいんですー!」

頬が熱くて、思わず手で押さえた。
知ってたけど、分かってたけど、磯前さんの声はある意味で凶器だと思う……。何でそんなに渋くてかっこいい声なんですか。
ちらりと見上げたら、磯前さんは何もかも分かっているかのような笑みで僕を見下ろしていた。

「――とにかく、俺は約束は果たしたぞ。今度はお前の番だ」
「う……」

だから、呼びたいのはやまやまなんですよ……。それが行動に伴わないだけで。
それでも、磯前さんはちゃんと約束を果たしてくれたんだから、僕が約束を破るわけにはいかない。
僕は何度も深呼吸をすると、磯前さんの顔をできるだけ視界に入れないようにしながら―だって顔を見てたら恥ずかしくてますます名前なんて呼べなくなる―胸の内で磯前さんの名を繰り返した。

(忠彦さん。忠彦さん。忠彦さん……よし、大丈夫だ!)



この勢いのまま、行け! 僕!



「たっ、ただ!」
「変なところで切るな」
「た、たたたたた」
「おい濁点が消えてるぞ」
「た、ただいま帰りました!」
「どこにだ」



……何やってんだ僕はーー!? 名前くらいさっさと呼べよ! って、呼べるならこんなに苦労してないんだよ!


 
空しく自分で自分を怒っていると、磯前さんのため息が聞こえた。
……そりゃ呆れるよ……。僕だって自分に呆れてるもの。
恐る恐る上目遣いに見上げると、磯前さんはただ小さな苦笑を浮かべて僕を見ていた。
あ、しょうがねえなあ、って顔してる。怒ってないのかな……。
磯前さんは、こんな手は使いたくなかったんだが……なんて前置きをしてから、ちら、とドアの近くの棚に目をやった。
確かあそこにはよく、灯さんがお菓子なんかの買い置きを置いている。何度もお世話になっているから覚えている。
磯前さんは、その棚に視線を送ったままで言葉を続けた。

「……和。お前が俺のことを名前で呼べたら、いいもんやるよ」
「いいもの?」
「……分かるだろうが?」

甘いもん好きなお前なら。そう言ってにやりと笑う磯前さんに、僕は頷いてみせた。
あそこに入っているのはおそらく『みどり屋の最中』だ。
甘味好きの垂涎の的、憧れの対象。買うためには3時間の行列を覚悟しなくてはならない、という超人気店。それがみどり屋だ。
以前みどり屋の話を灯さんとしていたんだけど、それを磯前さんは覚えていてくれたんだろう。
そうじゃなければあんなにも自信たっぷりの顔をするはずがない。
……食べ物に釣られるっていうのも、情けない話だけど。
でも、僕にとってはとても魅力的な代物なんだ、みどり屋の最中は! 最中のためなら、僕はどんな困難でも乗り越えてみせる!



――それに僕だって、本当はちゃんと名前を呼びたいんだ。



名前を呼んでもらって、みどり屋の最中まで出させて、これで名前を呼ばなきゃ男がすたる。
変に意識するからいけないんだ。普通に、普通に。
…………よし、行くぞ。


「――た、」
「………………」
「忠彦さん。――ってうわあ! 言えた!」

自分で言って自分で驚いた! すごい、みどり屋の最中!

「忠彦さん、呼べましたよ! やっと呼べました!」

嬉しくて、僕は思わず忠彦さんにぎゅーっと抱きついていた。忠彦さんは動じることもなく、すぐによしよし、って頭を撫でてくれる。
……うう、嬉しい。ほんとに嬉しい。何か涙出てきた。

「おい、こんなことで泣くな、和」
「うう、……はい。……でも、これからは、ちゃんと忠彦さんって呼べます!」

グッとガッツポーズを作ると、忠彦さんは僕の目元を拭いながら、穏やかに微笑んだ。

「よし、良く頑張ったな。じゃあ、約束どおりに」

みどり屋の最中ですか!?
わくわくしながら棚の方を見ようとすると――スッと視界が遮られた。
え、と思った時には、忠彦さんしか見えなくなっていた。



――忠彦さんはふっと笑って、僕の顎をそっと掬うと、ちゅ、と音を立てて唇にキスをした。




「…………え…………」

ぽかん、と口を開けて、離れていく忠彦さんを見る。
ええと……今、確かにキス、されたよね?
じわじわと顔が熱くなってくる。だって不意打ちだ。
心構えも何もしないままにキスされたことなんかなかったから、今更心臓が早鐘を打ち始めた。

「……あ、甘いものって」
「ちゃんと甘かっただろうが?」

ん? と忠彦さんは笑った。
……あ、甘いものって……そう言う意味だったのか……!
恥ずかしいのか嬉しいのか、何だかよく分からない心持ちのままで、僕はただ一言、

「――煙草の味がしました」

と呟いた。忠彦さんが悪かったな、と苦笑を浮かべる。



それなのに、と僕は心の中だけで続ける。
それなのに、しっかり甘く感じたのは、やっぱり僕が忠彦さんを好きなせいなんだろうなぁ。




――余談だけど、忠彦さんはちゃんとこの後みどり屋の最中をご馳走してくれた。
すごく甘くて美味しい最中だった。超人気店だというのも頷ける。
でも、最中よりも忠彦さんのキスの方が甘く感じた僕は、これから先どうしたらいいんだろうか、とちょっと思った。





葉月屋はづき様に捧げます。









ごめん私嬉しくて死にそうです…!
いやだってさ!お祝いの言葉をいただけるだけでもう
十分嬉しいのに、こんな素敵暗×和SS頂いちゃったら!!
見習え自分!な大人な暗石さんがここにいるよ〜!
藤花さま、本当にありがとうございます!
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